うずしおの『経過観察中』

日記あるいはラジオみたいなもの

認識の解像度

認識の解像度が低い。

渦潮は絵が絶望的に下手なのですが、その理由として、一つの絵を丁寧に仕上げられないというところがあります。頭に浮かんだ構図とか情景をスケッチしてみると、詳細がどうなっているかが分からなかったり、どうしてもディティールを描き込むことができないのです。

逆に全体の形を捉えることは恐らく得意で、むしろその能力だけを使っていままで生きてきた感じがあります。たまに絵なんかを描かせると自分がいかに茫漠とした認識で世界を捉えているのかが歴然として、世の中に向き合わず妄想の世界に棲んでいる自分が浮き彫りになるのです。

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過去に描いた絵。渦潮は面倒臭がってるというよりは、これ以上描き込むことができない。

自分の小説の作り方でもそれは同じで、自分にとって執筆するとはざっくりした物語の認識がまずあって、それを具体的な時間軸のなかに下ろしてきて、実際に『現実がどうなっているか』に初めて向き合わなくてはならない、ただただ苦しい作業だったりします。(それから逃げてばかりいるのが恥ずかしいことなんですが)

そしていま舞台を現代モノで書いているのですが、ジャンルがSFやファンタジーから現代であるほどその解像度の要求レベルが上がり、自分のざっくりとした認識と現実との齟齬が大きくなり、その修正に非常に体力を消耗させられています。自分の頭の悪さに愕然とさせられるのです。いざ書いたものを読むと、そうじゃないだろと思わされ続け、僕は認識の解像度においてIQ70くらいしか無いと思う。

自分の話はいいのです。

多分、認識の解像度が高い人のほうが幸福に生きられると思っています。それは物事がはっきりと視えていることで、不安を低減させるからです。また、現実との矛盾も減るからです。絵を描いて、そのディティールが具体的な人ほど、認識の悩みというのは少ないんじゃないかと勝手に思っています。

友人の絵描きが、何故絵の練習で模写をするのか、という話をしていて、それは脳の歪みを正すためだと言っていました。自分の認識しているイメージと、アウトプットのイメージの差に自分で気付き、それと向き合い修正する、そうして自分の認識の解像度を深める訓練なのだと、僕は解釈しました。

物事の全体が見えていることもまたその人の重要な能力ですが、詳細を見える力というのはその人の幸福に直結するんじゃないかと思っています。これと向き合う作業というのは、苦しくも大事なことなんじゃないでしょうか。そして、何らかの方法でアウトプットしてみると恐ろしいほど冷酷にその現実を露わにすることができます。いや、本当にびっくりしますけどね。自己嫌悪に負けないように、頑張っていきたいところです。これに勝つための方法も考えたいですよね。

技術力と認識能力の関係。訓練によって認識能力自体を鍛えることはできるのか(『認識の解像度』という概念は存在するのか)。この辺りが気になりますよね。

渦潮でした。