お詫び、記事への不適切な内容について
連投になりますが。
宇佐崎しろさんのTwitterでの投稿を読みまして
アクタージュ読者の皆様へ pic.twitter.com/ewuOZR2ALB
— 宇佐崎しろ (@uszksr) 2020年8月24日
以前の私の記事で自分が被害者の方への配慮に欠けたコメントを書いていたことを深く反省させられました。
不快に感じられた方や、傷付いた方に対し、この場を借りて深くお詫び致します。
一度性的被害を受けた女性が、男性に常に怖い思いをしているということについて
男性から女性へ恐怖心を与えるベクトルが一方的であるからこそ、配慮せねばならず
潜在的にそうした被害を受けている方がかなり多いことにも留意したく思いました。
性差に甘んじた視点から記事を書くことをしないよう、今後一層の注意を以って記事を書かせていただきます。
当該記事の文意について、重ねてお詫び致します。
『悼む人』天童荒太著の感想とか――
「小説を読む必要性ってどういうものがあるの?」と、少し前に友人に訊ねられた。答えるのがものすごく難しく、そのときは自分自身が小説を読むときに感じている意味とか意義みたいなものを、特に小説の読み始めのときに強く思っていたことを、率直に話すしか伝え方が無いなと思った。
小説は、物語だ。物語は、通して読んでもらわないと、結局はその人のなかに体験として理解され得ない。だからその体験の素晴らしさとか、必要性とかを、他人が間接的に語っても、本当に伝えたい、経験して欲しいことは伝えきることはできない。
それに、僕自身は小説は無理に読む『必要』はないと思っている。小説に代替される物語として映画やマンガがあるし、自分の人生やスポーツ観戦とか、あらゆるコンテンツに備わっているドラマ性というものから、得られる体験がある。強いてあげるなら、そういったドラマから何かを見出す審美眼といったものは、小説を読むことで、《言語化され》養われる、というメリットがあるかもしれない。小説を読みながらふと、目で見る物語と、文字で読む物語は、またちょっと微妙に異なるものなのかもしれないなともやっぱり思った。
僕自身にとっての物語を読む意義は、自己研鑽の目的とは少し違って、ちょっと自身の考え方・哲学も入っていると思うのだが、『人の一生は一つの物語だと思う。自分が一生のうちに読むことのできる小説の冊数は限られている。物語というものの成り立ちを知りたい。どうせ死ぬならできる限りの物語を知って死にたい』というものがある。
読むことが目的で、必要性なので、なかなか説明することが難しい。また実際小説を継続して読むというのは根気が要り習慣化の助けも借りなければ難しい行為だと思うので、一般的なメリットの説明だけでは、その大変さの山を越えることができない。かといって、自分自身が小説を読んでいる原動的な意義を話しても、そういった考えを抱いたことがなければ、同じような気持ちにはなりきれてもらえないだろう。
だから難しいなと思う。
さて、そんな前置きとはあんまり関係なく、最近読了した天童荒太の『悼む人』の感想を書いていきます。最近っていうか、さっき読み終えたばかりなんだけれど。 今作は2015年の映画で有名だ。
続きを読む小説の書き方:カタルシスのつくり方
お久しぶりです。
うずしお丸です。
なんだか大げさなタイトルで書き始めてしまいました。
今回こういったタイトルで記事を書こうと思ったのも、知り合いが筆を執る(小説を書く)という話を聞きまして、
自分に何か手助けできることはないだろうかと、思ったためです。
小説を書ききるということはとても難しく、ほとんどの人は途中で投げ出してしまうと思います。
目を閉じて見て下さい。真っ暗闇で何も見えないですよね。小説を書くというのは、その暗中から人々に読まれる物語を作っていく作業で、つらく苦しい道のりです。
しかし、カタルシスを作ることを意識する、言い換えると、小説のオチという、『物語の終わり』を考えられるようになると、小説を書き上げられる確率が飛躍的に上がります。
僕が小説を書くうえで一番大事にしていることも、この『終わり方を考える』ことだったりします。
[目次]
- はじめに
- カタルシスのつくり方
- 自分の美徳を見つける
小説の書き方:人称の話
どうも、うずしお丸です。
今回は小説について解説をさせて下さい。
小説はそんなに技術が要らない分野でありまして、文章を書くだけであれば技術というより約束事、ルールが支配している部分が多いです。
今回はなかでも基本的な約束事である『人称』についてを、解説していきます。
人称には、一人称と二人称と三人称があります。
一人称は主語が「わたし」や「ぼく」などをとり、自分を主体にする文章のことです。
二人称は主語が「あなた」になり、読み手を主体にする文章です。
三人称は主語が「彼」「A」など、一人称と二人称以外のすべてのものを主体にとる文章を指します。
小説では原則として、一文という単位で人称を切り替えることが許されています。
また、上の図のように一人称と三人称は細分化をすることができ、主観的な一人称一視点と、客観的な一人称多視点、主観的な三人称一視点と、客観的な三人称多視点に分かれます。
それぞれ説明していきましょう。
* 一人称一視点
一人称一視点とは、対象の人物が感じたことを『感じたままに』書く一人称になります。
『小説のための描写』をしていない一人称、といえばいいでしょうか。
対象である「わたし」の情感をそのまま書きたい際に採用されます。
しゃべりたくなくて口を閉ざしているのではない。しゃべれない。声を出したいのに、口が動かない。口が動いても息が出ない。息が出ても、声にならない。
――――青い鳥 重松清
主観的、客観的と書きましたが、一人称では特に明確な境界はありません。話し手である「わたし」がどれだけ客観的に話せるかというレベルの違いであるからです。次の引用も、一人称一視点に入ると思います。
ほんとはね、心の底ではわかってたと思う。高々度のBARCAPで脱出なんかしたって助かるわけないって。でも、あのときのわたしは、エリカはきっと無事だって思ってた。うまく海に降りて、ボートで漂流しながらレスキューパッケージが助けに来るのを待ってるんだ、絶対そうだ、って思ってた。
――――イリヤの空、UFOの夏 秋山瑞人
後述する一人称多視点と比較して、一人称一視点では、『小説の描写』という小説側の事情を介入させないために、人物の心情を真摯に伝えることができます。
一人称で文章を書いてみて、なにかその人物に迫れない、壁を一枚隔てたような感覚を覚えるとしたら、次に説明する一人称多視点で描写をしているためかもしれません。
- 一人称多視点
一人称多視点は、「わたし」が小説の描写をする人称となります。
小津は私と同学年である。工学部で電気電子工学科に所属するにもかかわらず、電気も電子も工学も嫌いである。一回生が終わった時点での取得単位および成績は恐るべき低空飛行であり、果たして大学に在籍している意味があるのかと危ぶまれた。しかし本人はどこ吹く風であった。
ふつう人はこんなふうに描写をして生きていないところからも、一人称多視点は、一人称一視点と区別される小説的な描写であるのが分かると思います。
この視点では、主体である「わたし」が客観的に周囲の描写をするために、一人称のなかでも説明的な描写となります。一人称一視点では主体の気が回らないはずの描写や、時間の流れをある程度無視した描写をすることができるようになります。
ふつう一人称の小説では、一人称一視点と多視点が混在しています。
- 一人称の使い分け
一人称の客観レベルの調整によって、次のように読者に与える印象が変わってきます。
一人称一視点 ⇔ 一人称多視点
純粋、真摯、自然 ⇔ 描写的、客観的、諧謔的
必ずしもそうではないのですが、上述の傾向として、一人称一視点はライトノベルに人気が高く、一人称多視点は大衆小説などで使われることが多いです。
視点の客観レベルによって読み手に与えるその人物の印象はかなり変わってくるので、書き手のねらいによって調整して使い分けるのが大切だと思っています。
- 二人称
「あなた」を主語とし、読み手を主体とする文章です。
小説ではあまり使われることのない人称ですが、日常生活ではアンケートやゲームのシナリオなどで使われます。
この人称だけで書かれた小説は読んだことが無いのですが、
一度同人誌で、二人称を効果的に用いた小説を読んだことがあります。
一人称で狂気的な自己撞着に落ちていく描写を続けるなかで、唐突に一文だけ二人称で、「ここまで読んだあなたも助からなかった。」と書かれており、ぞくっとしたことを覚えています。
ジャンルとしては純文学かホラーに適正があるのかもしれません。
二人称は、読み手の体験を小説上の人物の体験と一致させる方法として効果的で、ゲームの表現でいうと、プレイヤーに選択肢を選ばせることがそれに該当すると思います。二人称にはそれと同様の効果があるのではないかと考えています。
- 三人称一視点
三人称では、登場させる人物は無制限となり、誰を主体にしても構いません。
ですが、主体を一つに限るのか、複数とってよいのかで、使い分けが発生します。
どういうことかというと、主体をとるというのは、その人物の思考や視野を通して、描写をするということになります。すると、人物Aから見える世界の限界というものが存在することがわかります。
三人称一視点では、この限界を越えることができません。
一人の人物を主役として明確に扱いたい場合このような描写が取られたりします。
- 三人称多視点
三人称一視点のときの、思考や視野を通して描写ができる主体を、複数選べる書き方になります。
もともと気の弱いソーニャは、もうまえまえから、自分が誰よりも傷つけられやすいこと、誰でもほとんど罰をうける心配なしに彼女を辱めることができることを知っていた。
すると不意に、奇妙な、思いがけぬ、ソーニャに対するはげしい嫌悪感が、彼の心をよぎった。彼は自分でもこの感情にはっとして、おどろいたように、不意に顔を上げて、じっと彼女を凝視した。
- 三人称の使い分け
「どの人物の思考や視界を描写するか」という考え方で使い分けをします。どこまで人物の視点を「暴露」するかという線引の問題になります。
三人称では、主役側の視点を取り、主人公側の人物の考えていることを読者に伝えることで安心感を与えることが多く、一方で冷たい印象を読者に与えるために、ミステリにおけるミスリードの対象や、敵役、赤の他人の視点は敢えて取らないことが多いです。
そうした印象を逆手に取って、途中まで主体を取らなかった人物を、展開に合わせて視点にとって思考を書くようにして、味方側に引き込んだのだという印象を与えることもできます。
主体を取らず理解ができない存在だった敵役を、物語の後半で三人称一視点にして生い立ちを語る、というような使い分けの例ですね。
- おわりに
ここまで読んで下さってありがとうございます。
伝わってもらえらたら嬉しいのですが、人称とその視点のレベル感の書き分けによって、読者に与える『印象』は随分と変わります。
そしてどの人称を選択するかによって、『書ける範囲』というのも異なってくる、というのがもう一つの大事なところですね。一人称一視点では、他人の思考まで覗くことはできない、というように。
書きたい小説の雰囲気や、語らなければならない視点というのに合わせて、人称は適切に使い分けていきましょう。
複数の人称を切り替えるために章や段落を分けるのも効果的です。
そこは気楽に、挑戦的に。
今回のお話が小説を書く助けになりましたら幸いです。
それでは。
やりたいことをやっているはずなのに、どうして幸福感が無いのか
答えの出ない問いを記事にして、自己愛的な欲求を満たそうとしている。
普段はこうした感情に背を向けて、意味のあることを、役に立つことを、正の方向に、やろうしているのだが。
負の方向を書くには、問いに直面するしかない、それも独りよがりに。
絵を描いたり、動画を作ったり、視覚表現の技術に手を出すようになった。 これまで頑なにやってこなかったといってもいい視覚に訴えかける行為を、実はしたかった筈だ。 しかし諦めていた行為を大人になってから出来るようになっても、全く嬉しくないという現実があった。 そして背を向けているのは物語にである。 やりたいことをやっているのに、何も嬉しくなくて、どうしてこんな思いをしなければならないのだろうと思った。 逃げてはいけないのである。 それとは別に、やりたいことがあった。 人生はこの繰り返しなのだろうか。やりたいことと、追われていることとの揺り返し。
友人が成功しそうな流れを掴んでいて、とても誇らしい。仕事では同期に嫉妬する自分を発見した。時間というリソースは等しく有限で、平日はベルトコンベアに乗って流れていた。さいきんの悩みは、逃げないで、追われていることも、やりたいことも越えて、心身を壊さないで、時間に焦らないで、生きていくということだ。一番遠いところに、霞の先にゲームを作ることが待ってる。それは正直楽しみなんだよな。