うずしおの『経過観察中』

日記あるいはラジオみたいなもの

『悼む人』天童荒太著の感想とか――

「小説を読む必要性ってどういうものがあるの?」と、少し前に友人に訊ねられた。答えるのがものすごく難しく、そのときは自分自身が小説を読むときに感じている意味とか意義みたいなものを、特に小説の読み始めのときに強く思っていたことを、率直に話すしか伝え方が無いなと思った。

小説は、物語だ。物語は、通して読んでもらわないと、結局はその人のなかに体験として理解され得ない。だからその体験の素晴らしさとか、必要性とかを、他人が間接的に語っても、本当に伝えたい、経験して欲しいことは伝えきることはできない。

それに、僕自身は小説は無理に読む『必要』はないと思っている。小説に代替される物語として映画やマンガがあるし、自分の人生やスポーツ観戦とか、あらゆるコンテンツに備わっているドラマ性というものから、得られる体験がある。強いてあげるなら、そういったドラマから何かを見出す審美眼といったものは、小説を読むことで、《言語化され》養われる、というメリットがあるかもしれない。小説を読みながらふと、目で見る物語と、文字で読む物語は、またちょっと微妙に異なるものなのかもしれないなともやっぱり思った。

僕自身にとっての物語を読む意義は、自己研鑽の目的とは少し違って、ちょっと自身の考え方・哲学も入っていると思うのだが、『人の一生は一つの物語だと思う。自分が一生のうちに読むことのできる小説の冊数は限られている。物語というものの成り立ちを知りたい。どうせ死ぬならできる限りの物語を知って死にたい』というものがある。

読むことが目的で、必要性なので、なかなか説明することが難しい。また実際小説を継続して読むというのは根気が要り習慣化の助けも借りなければ難しい行為だと思うので、一般的なメリットの説明だけでは、その大変さの山を越えることができない。かといって、自分自身が小説を読んでいる原動的な意義を話しても、そういった考えを抱いたことがなければ、同じような気持ちにはなりきれてもらえないだろう。

だから難しいなと思う。

さて、そんな前置きとはあんまり関係なく、最近読了した天童荒太の『悼む人』の感想を書いていきます。最近っていうか、さっき読み終えたばかりなんだけれど。 今作は2015年の映画で有名だ。

悼む人 上 (文春文庫)

悼む人 上 (文春文庫)

不慮の死を遂げた人々を“悼む"ため、全国を放浪する坂築静人。静人の行為に疑問を抱き、彼の身辺を調べ始める雑誌記者・蒔野。末期がんに冒された静人の母・巡子。そして、自らが手にかけた夫の亡霊に取りつかれた女・倖世。静人と彼を巡る人々が織りなす生と死、愛と僧しみ、罪と許しのドラマ。第140回直木賞受賞作。

"「この方は生前、誰を愛し、誰に愛されたでしょうか?どんなことで感謝されたことがあったでしょうか?」ーー事件や事故で命を落とした人々のためを「悼む」放浪の旅を続ける静人。 彼の問いかけはそのまわりの人々を変えていく。 家族との確執、死別の葛藤、自らを縛り付ける""亡霊""との対決、思いがけぬ愛。 そして死の枕辺で、新たな命が生まれ……。 静かな感動が心に満ちるラスト! " 映画化、舞台化された話題作。

――文庫版あらすじより

僕は映画を観ていないので、主人公の坂築静人がずっと『レンタル何もしない人』で再生されていた。

お手本のような三人称一視点で章が分かれており、文章はとても読みやすい。 意識レベルに合わせて(しかも今回は『意識レベル』って語義も合ってる!)、三人称の描写の濃淡が変わってゆくところは技巧を感じた。セリフと地の文の境界が曖昧になるところや『(声が出なくなる)』など、描写のパターンは枚挙にいとまがないほどだった。

――――実はこの小説を読んでいる期間で祖父が亡くなった。

自分の大学の学費を出してくれていたり、本当に経済的にお世話になった人だった。町内ではちょっとした有名な人というか、目立ちたがりで地域のイベントを先導したがったり、お騒がせな一面もあり、機械いじりが好きな人で、自分の家でやっている野菜の無人市場にベルトコンベアを導入して、お金を機械に入れると自動でベルトコンベアが釣り銭をビニールハウスの作業場へと運んだ。早朝から農業をやり、体を本当によく動かしてまさに汗水を垂らして働き、夕方には大酒を飲み、何度も内蔵の手術をしていた。よく笑い、下品だったり、若者の文化に攻撃的だったり(それでも一度だけプレステのゲームをやらせたら大爆笑しながら何度もサルをメカボ―で叩いていた)、そして心に影を落とした者を冷たく監視するような、良い意味でも悪い意味でも田舎の人のようなところがあった。その目が僕自身にも向けられたこともあり、人格形成に少し影響を与えたような気もする。思春期の一時期にはこの祖父と同居していた時があり、盆の折、風呂場で僕が鏡に映った影を(幽霊だ!)と思い走って脱衣所から逃げたところ、その前の年に死んだ弟が盆に帰ってきたのだと、祖父は懐かしんでいた。最期には末期がんとアルツハイマーを併発し、人は最後は赤子のようになって死んでいくんだなと、不謹慎だが、思わされた。コロナの影響があり、通夜と葬式に東京から参列するのは自粛した。

なんだかこうして祖父の人物像を書いていると初めて身近な人の死の実感が伴ってきた。やはり元気だった頃の印象が強く、農業をしている姿など、割と鮮やかに思い出せることに驚いている。喪失して『もういないこと』自体には、いつまで経っても実感を持てそうにないのだが――

脱線してしまった。

主人公・坂築静人は、死者を覚えておくことを『悼む』と表現し、右手を天に、左手を地へ伸ばし、それから胸へと何かを集めるように持ってくる動作をする。そういう風に彼なりの悼み方で、死者を自分の記憶に刻み込む。またそのときに、赤の他人であったはずの死者なのだが、『その人がどういった人物であったのか。誰を愛し、誰に愛されていたのか』といったことを、周囲の人に聞き、調べ、併せて覚えておくのだという。それが一番記憶に残りやすいと、静人は旅を続けて二年目に気付いた。

――もうお気づきかもしれないが、この小説は非常に道徳的だ。道徳といえば小学校の授業で習ったきりである。人によっては敬遠の対象かもしれない。この物語はその道徳を最後までとことん貫いている。

決して読みやすい小説ではなくて、これから読書をしたいって人に薦めるのは難しいかもしれない。でも、是非多くの人に読んで欲しいので余計かもしれないがアドバイスをすると、特に序盤は慣れが必要だと思った。大衆小説風のセリフ回しや、繰り返し現れる事故死や殺人などの話や、全く感情を動かさない坂築静人の巡礼の旅に。だが後半にかけて、残虐な死や、胸を塞ぐような死が、物語を読み進める求心力になっていることに気付かされる…………。それは小説の因果なところかもしれない。しかし巡礼の旅の果てに確かに素晴らしいものがある。

この小説を読んで、道徳とは罪悪感を忘れないことなのではないかと思った。 そして罪悪感とは、死者を忘れていくことや、周囲の人間の死を見て見ぬ振りをすること、自身のなかにある無関心に由来して発生するのかもしれない。 罪悪感から目を逸らさず、自身の道を貫く坂築静人。彼の旅のゆくえは、皆さんの目で確かめてあげて欲しい。

と、ここまで小説の感想を書いていて、 『小説を読んで学んだこと(自分が変化したこと)』と『直近で身近な者かペットが亡くなり、命の大切さに気付くこと』この二つを書いている、表彰されるタイプの読書感想文のテンプレを揃えてしまったではないかと。 僕は高校生の頃、小説を読まずに読書感想文を出して討論会に参加したことがあって、当時を思い出すと恥ずかしい。昔は小説を読む習慣のない人だったし、ちなみにいまも小説を読み書きするのはやっぱりつらさというか努力の必要があって、ここまで小説について書いてきましたけれど、読書家ってほんと凄えなって思っています。

天童荒太の作品は他に『家族狩り(単行本版)』を読みましたけれど、家族の対象化からまた戻ってきたのですね。ただ『家族狩り』は《無関心》の極点にいて、『悼む人』はまた真逆の極点から書かれていると思いました。読了して、この小説を書いた人がいる、というのを知れたのが自分にとっては大切なことだったなと思い。静人特有の感じ方を書けることが凄い、とずっと思っていたのですが、文庫版の謝辞には、その苦労が書かれており、大変価値がありました。

この物語も覚えておく。昔読んだ小説や素晴らしかったゲームのことも、いつまでも覚えておきたいなあ。どうしたらいいのだろう。これから考えていこうと思いました。

ここまで読んで下さってありがとうございます。

それでは、また。