うずしおの『経過観察中』

日記あるいはラジオみたいなもの

小説の書き方:カタルシスのつくり方

お久しぶりです。

うずしお丸です。

なんだか大げさなタイトルで書き始めてしまいました。

今回こういったタイトルで記事を書こうと思ったのも、知り合いが筆を執る(小説を書く)という話を聞きまして、

自分に何か手助けできることはないだろうかと、思ったためです。

小説を書ききるということはとても難しく、ほとんどの人は途中で投げ出してしまうと思います。

目を閉じて見て下さい。真っ暗闇で何も見えないですよね。小説を書くというのは、その暗中から人々に読まれる物語を作っていく作業で、つらく苦しい道のりです。

しかし、カタルシスを作ることを意識する、言い換えると、小説のオチという、『物語の終わり』を考えられるようになると、小説を書き上げられる確率が飛躍的に上がります。

僕が小説を書くうえで一番大事にしていることも、この『終わり方を考える』ことだったりします。

[目次]

はじめに

小説の書き方は、小説というものの考え方で大きく変わってくるものです。

1シーンでも読者の心に残ることが大事だという考え方なら、文章自体が大事になるでしょうし、小説は情報を伝える媒体だと考えるなら、明晰な論理構成が大事になってくると思います。

私は『終わり方』が一番大事だと思っています。なぜなら小説の全体を終わらせるやり方がわかっていれば、小説を複数のシーンに分割したときに、そのシーンの終わり方も自ずとわかってくるので、自分の扱える範囲での終わり方を目指すことで、筆を進めることができるからです。

物事の全体を終わらせる方法を知ることで、部分の終わらせ方も分かる。全体をより大きな範囲に広げることで、もっと大きな概念の終わらせ方が分かる。人生とか、芸術とか……ひとまずは単純にそんなふうに考えています。

大事なのは、自分がどういった考え方で小説を描いているのか、一番重視しているものを認識することだと思っています。

さて、本題に入りましょうか。

カタルシスのつくり方

カタルシスのつくり方と、物語の構成は密接不可分です。構成とは起承転結や序破急といったものを思い浮かべて下さい。中盤で盛り上げるために情報を詰め込んだり、過去回想を効果的に扱うために展開を入れ替えたり。こうした物語の流れを扱うことを『構成』といいます。(ここではそう定義しましょう)

カタルシスはこうした構成の結果生じる心理現象のことです。

カタルシス』を辞書で引いてみましょう。

1 文学作品などの鑑賞において、そこに展開される世界への感情移入が行われることで、日常生活の中で抑圧されていた感情が解放され、快感がもたらされること。特に悲劇のもたらす効果としてアリストテレスが説いた。浄化。

精神分析で、無意識の層に抑圧されている心のしこりを外部に表出させることで症状を消失させる治療法。通利療法。

[出典 小学館

どうでしょうか。アリストテレスってほんと何でもやってますね……。日常生活の抑圧の解放ですって。精神療法としても実績があるみたいです。でも通利療法ってアレな響きですね。どちらにせよ、人間の鬱憤とその解放がイメージされますね。

小説では、この『カタルシス』を目指して終わりを形作っていきます。

あ、超いまさらなんですが、この記事の対象読者は、小説を書き始めたがまだ完成させていない人、完成のさせかたがわからない人、といった筆の執り始めの方を主に対象としています。あとは、小説の書き方に興味がある人にも面白く読んでもらえたら嬉しいです。自分としては当たり前のことをちゃんと言葉にして、小説というものをより深く理解しようという試みなので、そんなこと知ってるよ、という人には向かない内容だと思っています。

さて、閑話休題しまして、カタルシスを作っていく前提を提示しましょう。それは構成によってカタルシスを作ることです。音楽で言えばコード進行でほとんど楽曲の印象が決まってしまうようなものだと思っています。(音楽のことあんまり詳しくないので適当言ってます)

カタルシスは構成によって作られる。

一番簡単にカタルシスを作る構成は、困難からの解放です。辞書の意味通りに、苦しみを用意して、それを物語のなかで解決する。ハッピー幸せ。2ステップで作る読了感です。

しかしこの2ステップを基本として、構成を複雑にしていくことができるのです。序破急は3ステップ、起承転結は4ステップ。

ここで、他にどのような構成ならカタルシスが作れるのか、という話はしないことにします。それは構成を意識しながら映画やマンガやアニメを観るだけで、幾らでも得られる知識で、あとはそれを自分なりにアレンジし、あなたの手で物語を作ってゆく作業だと思っています。

ここから先では、『自分なりにそれを作る』ことが、知識を持っていてもどうしてもできない人に向けてやり方を書いていきたいと思っています。

自分の美徳を見つける

筆を執ってからまず最初にしなければいけないのは、『自分を知ること』だと、僕が私淑している師匠にあたる方は言っておりました。

僕もそうだと思いますが、自分を知るとは抽象的で終わりのない試みで、さらに人間は自分の悪いところにばかり目が行きがちです。

そこで小説を書き始めの人で、僕が絶対にやって欲しいと思っていることは、『なんとしても一作を書き上げる』ということです。

小説であればどんなに短い短編であってもOKです。

何? 最初から10万字の長編に挑戦してる? てやんでぇ、やりきって下さい! 頑張れ。

小説を書き切ることの大切さは、一度書き切った体験をしないとわかりにくいし、伝えにくいです。

ここで、自分が小説を書きあげたときの体験を話しましょう。

僕が高校生の頃に小説を書きあげたとき――まさに物語を書き切ろうとしているとき、自分の身体の奥底から震えが来るような感じがし、身体中がびりびりと緊張感で満たされ、自分が本当は何を考えているのか、何を見ているのか、それを『自分自身で知りたい』という、異様なトランス状態に駆られました。

そうして書いている物語のなかでは、名前の無い主人公が、地獄で出会った友人を目の前で空から降ってきた鉄の塊によって失ってしまい、彼を背負って冥土を歩いているところでした。

僕は小説を書くことを通して、自分が一番大事にしているものが、自ずから紙面に表れるという体験をしたのです。

これは自分の美徳を発見するという行為なのではないかと思っています。

そして小説の一番の佳境のシーンでは、そうした自分の美徳が物語のなかで全体を響かせている場面にあるのではないかと思うのです。

これから小説を書く方、小説を書こうともがき苦しんでいる方は、自分の美徳を、小説を書くことを通して探して、求めて、考え続けて下さい。

そうして、自分の美徳を得て下さい。

それが物語のパターンであり、あなただけの構成になるのです。自ずと終わりに着地する感覚というのも体験できることでしょう。一度小説を書き切ることができれば、あとはその終わりへと着地する感覚を信じて、次の物語を作ることができるのではないかと。物語とはその繰り返しにすぎません。

僕はこの『終わり感』をものにすることが、カタルシス作りの第一歩だと思っています。

おそらくは物語の終わりを信じる精神と、困難と、困難を打破する人間性が、精神を浄化(カタルシスを去来)させる物語を生むのではないでしょうか。

蛇足ですが、他分野で成功を収めている人は、この『終わり感』を大体ものにしているので、普通の人が書くよりはなんらの困難もなく小説を書くことができます。成功体験がある人ほど強いわけです。

ですが、小説は『普通の人』が書くことが、大事な目線が書かれていて、重要なのです。他の分野では上へ上へ、技術の高みを目指していくことが大事ですが、小説、文学では、下へ下へ、より持たざるものの目線になることが大事だからです。

ここは諸説あるとは思っています。ただ童心から連続したところに、物語の終わりがあって、初心は忘れてはいけないというのはいつも思わされます。

そんな感じでしょうか。

まだ何も成していない者がこんなことを書いてしまいすみません。

自分の小説の書き方を言語化して、それが誰かの役に立ってくれたら嬉しいです。

それでは。